こんなこと言うとオッサンのたわごとと言われそうだが、僕が子供の頃は、今と比べて娯楽が無茶苦茶限られていた。テレビゲームなんてもちろんないし、スマホやSNSもない、テレビだってお笑いはドリフくらい。
昼間何をして遊んでいたかというと、それこそ缶蹴りやかくれんぼ。チョークで道路に線を引いて、ケンケンパや〇×なんかのゲームをしていた。何とも牧歌的、それに比べると今の子供たちは相当にハイレベルなことをしていると思う。
勉強の内容は変わってないのに遊びはどんどんハイレベル化している。これからは勉強についていけない子供だけではなく、遊びについていけない子供も出てくるのではないかと心配になる(そんなわけないだろと突っ込まれそうだが、オッサンの妄想だからホッといて欲しい)。
昔からあるおもちゃの一つにプラモデルがある。今はどちらかというとホビー的な扱いで、子供が楽しむというより、マニアな大人が楽しむ感が強くなっている。僕が子供の頃は男の子は基本プラモデルが定番の遊びだった。
自慢じゃないが、僕はプラモデルを最後まで完成させた記憶がない。なぜか?それは途中で飽きちゃうから。段々面倒くさくなってくる、今に至る僕の性根はこの頃から変わっていない。
結局、大人なんて図体だけは一人前だが、その根っこにある人としてのココロ、精神みたいなものは子供の頃に出来上がっている。そして、そこからたいして変わっていない。よく言われることだけど本当のこと、だから子供みたいな大人が多いのもうなずける。
ということで、飽きっぽくて面臭がりな僕は幼少期にすでに出来上がっていたわけ。でも、だからと言ってこれを否定する気はさらさらない。もっと根気ある人間に生まれ変わろうなんて気持ちもないし、飽きっぽくて面倒くさがり、それに何の問題があるのだろうか。
これが僕の個性なのだから、受け入れて、理解して生きていく、それが僕らしさ。この僕の個性を否定して、隠したり、誤魔化して生きていくのは僕に対して失礼だ。だから僕は自信をもって飽きっぽい、面倒くさがりな自分で生きていきたい。
人の個性なんてそう変わらないのだから、お前のそういうところがダメとか一方的に否定しちゃいけないと思う。あいつの個性、自分の個性、その両方を受け入れて、認めあっていくべき。
一般的にこうあるべき、社会常識はこうあるべき、なんていう固定観念に凝り固まってしまう方が不健全。誰に何を言われようが自分は自分、他人の言うことなんか気にしない、その代わり他人のことも認めてあげる、こういうスタンスが大事だと思う。
ちなみに僕はテレビゲームもしない。時間もかかるし何より面倒くさい。電車の中でスマホをいじってゲームしている人たちの気が知れないけど、これもまた人それぞれ。
僕はその分、違うことに時間を使えてよかったと思っている。まったりのんびり夢想する時間が好き。個性は人それぞれってこと、大事にしていきましょうよねー。