人生はロングドライブ

いつの間にやら人生後半、気づき感じる日々を疾走中

大人の所作


なにげない人の所作に感動することがある。

先日、一般道での渋滞中、何気なく歩道を歩く人が目に入った。20代と思われる若者、しょぼくれたジーンズにさえないリュック、バイトにでも向かうのだろうか、どんな毎日を送っているのか、あんま充実してなさそうだな、大きなお世話だがそんなこと思った。

その若者は道路の曲がり角で何やら立ち止まった。ここからではよく見えないが、腰をかがめ手を左右に動かしている。しばらくすると、その場から立ち去っていったのだが、手には枯れた花のようなものが握られていた。その間、3-40秒程度のこと。

クルマが動き出し、その曲がり角までくると、そこにはお地蔵様があった。なんとあの若者、通りすがりにお地蔵様を掃除して、その場にあった不要なものを片付けていったのだ。うーん、びっくり、それと同時にさえない若者と見かけだけで判断していた自分が恥ずかしくなる。

誰に見せるでも、誰に褒められるでもなく、自分の意思で掃除をしていたのだろう。そんな当たり前の所作に感動する。

僕は今年57歳の立派な大人だ。そんなオッサンは常日頃から大人の所作ができているのだろうか。

以前、雨の日にこんなことがあった。会社の帰り道、人がすれ違えるくらいの細い道を通ろうとした時、前からおじさんがやってきた。すれ違いざま僕は大きく傘を傾けた。するとおじさんは、何と傘を閉じて僕の横を通り過ぎた。もちろん雨は降っている。おじさんは、何事もなかったかのように再び傘を開くと行ってしまった。

おじさんは自然な所作だった。何か特別なことをしたとは思っていないだろう。でも僕にとっては特別なことだった、だって自分はそんなこと思いもしなかったのだもの。相手のために自分が濡れてもいいという考え自体がなかった。恥ずかしい。。。

こういう所作が自然にできる大人な大人になりたいと切実に思う57歳。

でもいいの、そういうことに気づき、感じることがまずは大事。僕だって最近は電車で人に席を譲ることくらいはできるようになった(あれって意外と所作に悩む)。何かあれば、知らない人にだって「ごめんね」とか「ありがとう」とか普通に言えるようにもなった。昔だったら、どう対応すればいいかわからず、そのままやり過ごすことが多かった。

きっと、知らないうちに社会の常識や人からの見た目を意識していたのだと思う。この人は席を譲られることを望んでいるのだろうか、結構ですなんて言われたらどうしようか。気軽に声をかけて、非常識と思われやしないか。自分の行動は正解なのか、人から見たらおかしなことをしているのではないだろうか。こんな感じだ。

これって何かに似てると思ったら、あれだ。仕事と一緒、会議やなんかで発言するときの所作。間違ったこと言ったら恥ずかしい、できない奴だと思われるんじゃないか、そんなこと考えてなかなか発言できない。若いころはこんなこと日常茶飯事。それでもいつの間にやら、何でも発言できるようになってくる。ようは経験を積んで自分に自信を持てるようになるわけ。

日常もそれと同じ。いろんな経験を経て、自分の行動に自信が持てるようになる。というより、自分は自分でしかないと割り切れるようになる。装ったって仕方がない、他人の目を気にしても意味がない。自然と自分なりの所作が身に付き、表現できるようになる。

だから尚更、歳相応の所作が自然にできる大人になりたいと思う。でも、それだって考えたって仕方がない。それが自分の所作、つまり自分の個性なんだから。色々と気づき感じて成長していくだけ、人間幾つになっても勉強だ。

8月後半のまだ暑い夏の夕方。あちーあちー言いながら歩いていた。信号待ちをしていたら、後ろにいる夫婦の会話が聞こえてきた。

空を見上げ「もう夏の雲じゃないね」、女性が言う。隣の男性が「そうだな、まだ暑いけど秋がやってくるんだな」そんなやりとり。

思わず空を見上げる。僕に見えたのはいつもの空といつもの雲。ただ暑い暑いとしか思っていなかった夏の空。そんな空を見て季節を感じる、そんな風情は自分にはない。

気づき感じることって難しい。まだまだ修行が足りない57歳。人生は死ぬまで勉強、立派な大人になりたい、そんなことを思うオッサンの日々は悩ましい。