定年になったら何しよう。
絵でも描こうかな。
マティスなんかの絵を見ると自分でも書けるんじゃないか、そんなことを思ったりする。もちろん大きな間違いなんだけど、同じように思っている人は世界中に5億人くらいいるのではないだろうか。
僕自身、そう思って、これまで何度も絵を描いた。額縁に入れて部屋に飾ったりもした。それなりに楽しい、でも長続きしない。僕は飽きっぽいのだ。根気もない。
話はずれるが、僕の実家は注文家具の製造を行っている。家族で営んでいる典型的な町工場。学生の頃から休みの日はそこで仕事の手伝いをさせられた。自分で図面を引いて、木材を準備して加工して、取り付けまでオーダーメイドで行う。なかなかのクリエイティブな仕事だと思うが、実際は大変な作業だ。
僕は真面目だけが取り柄だから、言われたことはしっかりやったが、いつも今日の仕事が早く終わらないかなーと思っていた。だから、大学を卒業するとさっさとお気楽なサラリーマンを選んでしまった。ちなみに実家は弟は継いでいる。
こんな有様だから、優雅に絵なんて描けるわけもない。きっとセンスもないだろう。それでも絵は好きだ。地方をドライブした際などに美術館に立ち寄ることがある。
現代の絵よりも、それこそマティスなどが活躍した時代の絵を見るのが面白い。絵自体よりも、作者がその時代にどういう気持ちで描いたのかが気になるから。何でこの作者はこういう絵を描こうと思ったのか、この絵を描いて何を表現しようとしたのか。
今の何不自由ない世の中で絵を描くことと当時とでは、まったく状況が違うだろう。作者がこの絵にどんなメッセージを表現しようとしたのだろうか、そんなことを考えながらボケッと絵を見るのは面白い(絵の良し悪しがわからないだけという説もある)。
長野に「清春芸術村」という場所がある。ここは武者小路実篤や志賀直哉を始めとする白樺派と呼ばれる人たちが作った美術館やらアトリエで、緑の芝生に囲まれた素敵なところだ。
ここに武者小路実篤さんの書いた自筆の原稿が展示されていた。この人、小説家だと思っていたが絵も描いていたらしい。自分の自画像なんかが飾られていた。
自筆で書かれた原稿は、汚い字で殴り書きされていたのだけど、そこには絵を描くことのすばらしさが書かれていた。
自分は小説で食べることができるようになって、そのおかげで自分が描いた絵も少しは注目してもらえるようになった。でもそれはあくまで絵に対する注目ではなく、小説家が描いた絵であることに対する注目である。それでも絵を描くことは、小説を書くこととは違う「魅力」がある。そんなことが書かれていた。
他愛もない文章なんだけど、武者小路実篤という歴史的な小説家が自筆で書いた文章を見て、なんか純粋に一人の人間の思いをそこで感じとった気がした。絵を描くことが好きなんだな、楽しいんだな、嬉しいんだな、そんな思いが伝わってきたから。
何でもそうだけど、思いを伝えることに有名か有名じゃないか、高尚な内容かそうじゃないかなんて関係ないんだよね。そこに自分の思いがあること、それに尽きると思う。武者小路実篤が絵に「魅力」を感じたのは、そこに小説とは異なる自分の思いの「表現方法」があったからだろう。
こういう気持ちを持って何かに没頭できたら幸せだ。
僕も以前は、自分の描いた絵を誰かに評価してもらいたい、そんな気持ちがあった。そういうことじゃないんだよね。それなりに歳を取って気づくこと。
比べられることじゃないけれど、ピカソやマティスだってその時々によって画風がドンドン変わっていった。上手に描く、芸術性を誰かに評価してもらう、そんなことじゃないんだよね、自分が表現したいことをしているだけ。
また絵でも描いてみようかな。性懲りもなく、そんな気持ちが湧き上がってくる。もちろん絵じゃなくていい、没頭する何かに出会ってみたい。時間はいくらでもあるんだ、楽しいねー。